4泊5日の山口旅行、2日目。
6時30分起床予定が二度寝により10時頃になったため、今日後半に計画していた津和野に行けないことが確定。
ドンマイ!
10時39分に下湯田発の中国JRバスで約10分、10時49分に白石に到着。
バス停付近のCafe & Bakery VERITAでフランクロールとクロワッサンドーナツを購入。
https://www.cafe-bakery-verita.jp
山口市は長門・周防国の守護に任じられた24代大内弘世が1360年(正平15年)頃に政庁を山口に移し、本拠としたことで発展し、「西の京」とも言われる。
大内弘世は将軍足利義詮に会うため京に上った際に感銘を受け、山口の一の坂川を京の鴨川にみたてて京に模した街づくりを行なった。応仁の乱の際は都から移り住む公卿や文化人などが多く、その後の大内義興・義隆の頃には西国一の大名として栄華を極めた。
江戸時代は萩に藩庁が置かれていたが、幕末の1864年(元治元年)には毛利敬親により山口に藩庁が移され、高杉晋作、伊藤博文、木戸孝允はもちろん、西郷隆盛、大久保利通、坂本馬など多くの志士が山口を訪れた。
ザビエル記念聖堂
フランシスコ・サビエルの来訪400年を記念して昭和27年に建てられたが平成3年9月5日に焼失したため、現在のものは平成10年に再建されたもの。
31代大内義隆はフランシスコ・サビエルに日本で最初に布教の許可を与えた。
ザビエルの聖腕を入れた厨子、ザビエル渡来450周年記念のザビエル宣教伝記図屏風、ナバラ州政府寄贈のステンドグラス、外にはキリスト生誕2000年アジアに平和を祈る大聖年の鐘があった。
山口県立博物館の企画展は「音ってなあに?」。
山口県政資料館(旧県庁舎・旧県会議事堂)
西洋の近代的な建築様式と伝統的な和様式が融合した大正時代(大正5年に完成)の建築物として、国の重要文化財に指定。
県政資料館でサルが目撃されたらしく、サルに注意と掲示があった。
旧県庁舎には、旧知事室や旧副知事室があり、バルコニーに出れた。旧県会議事堂の夢交流ホール(議場)が格好良かった。
旧山口藩庁門
萩から山口への藩庁移転の際に建てられた山口政事堂の正門で県の重要文化財。
山口市歴史民俗資料館
企画展は「山口市の未指定文化財vol.1 多彩な歴史文化資源の紹介」。
桜花図屏風(雲谷等祚)、大内塗皿・大内塗椀。
瑠璃光寺五重塔が改修中見れないので、代わりに15分の1の模型の写真を撮った。
山口市歴史民俗資料館 | 山口市の歴史・民俗・考古に関する資料の保存と活用をはかるとともに、郷土の歴史と文化について紹介しています。
山口大神宮
1520年(永正17年)に大内義興が勅許を得て伊勢神宮から分霊を勧請して創建した。内宮と外宮があり、内宮は天照大神、外宮は豊受大神が祭神で神明造りの社殿が建てられている。
伊勢神宮から直接分霊を受けて創建されたのは明治になるまでは山口大神宮だけで、西のお伊勢さまと言われる。
外宮も内宮も式年遷宮用の場所が隣にあった。
洞春寺
1572年 (元亀3年)に毛利輝元によって現在の広島県安芸高田市に創建された毛利元就の菩提寺で、その後、毛利氏とともに広島市、萩市、山口市へと移り、1871年 (明治4年)に現在の地に移った。
山門と観音堂は国の重要文化財で、山門は1400年(応永7年)頃に大内盛見が開基となって建てた国清寺の創建当時のもの。
観音堂は 1430 年(永享2年)に大内持盛が創建した観音寺の仏殿で、大正4年に洞春寺の境内に移建。
井上馨の墓もあった。
香山公園には、瑠璃光寺、枕流亭、香山墓地、うぐいす張りの石畳、雪舟像などがあり、日本の歴史公園100選に選定されている。
うぐいす張りの石畳は、人為的に造られたものではないのに、手を叩くか強く足踏みをすると、うぐいすの鳴き声のような音が返ってくる。
香山墓地には、藩庁を山口に移して以降の毛利家墓所で13代敬親~15代元昭らの墓がある。
露山堂は、毛利敬親が倒幕や王政復古の密議を行った場所で、品川弥二郎が移築を計画した。
枕流亭
1867年 (慶応3年)に薩長藩の小松帯刀、西郷隆盛などと長州藩の木戸孝允や広沢真臣らが枕流亭の2階で会見し、薩長連合に関する密談が行われた。その後2,3度移築され、昭和35年に修理されて、この地に移設された。
工事をしていなければ、2階から五重塔が見えそう。
25代大内義弘が香積寺を建立し、弟の大内盛見が大内義弘を弔うために1442年(嘉吉2年)に五重塔を建てた。関ヶ原の合戦の後に毛利輝元が香積寺を萩に引寺し、跡地に瑠璃光寺を移築した。
瑠璃光寺の五重塔は国宝で、奈良の法隆寺五重塔、京都の醍醐寺五重塔とともに日本三名塔と言われる。
現在は令和の大改修中で、約70年ぶりの檜皮葺屋根の全面葺き替え工事が行われている。(2023年4月~2026年3月予定)
大内弘世の像を見て、瑠璃光寺名物のひやしあまざけ、ひやしあめ(飲み物)を飲もうと思ったが、生姜入りと聞いて断念。
雪舟像を見て、錦の御旗製作所跡。
品川弥二郎が京都の西陣で購入した材料から、ここで錦の御旗を製作し、鳥羽伏見の戦いで官軍の陣頭に立てられた。
雲谷庵跡
雪舟が創作活動を行ったアトリエで、1506年(永正3年)に87歳のときに雲谷庵で没したと言われる。
雪舟は大内氏の招きにより、40歳頃に山口に来て、48歳の1467年(応仁元年)に遣明船に乗って中国に渡り、代表作「山水長巻」もここで描かれたと言われる。
今の建物は明治17年に建てられたもの。
中にも入れたが、猫が入らないように扉は閉めてくださいと注意書きがあった。外には五重塔が見える台があり、塔の上部の修理の囲いが見えた。
菜香亭
明治10年の創業から平成8年までの間、山口の迎賓館として親しまれてきた料亭祇園菜香亭を移築復元し、平成16年10月2日にオープンした。
名付け親である井上馨をはじめ、三条実美、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、田中義一、松岡洋右、佐藤栄作、田中角栄、竹下登、安倍晋三などの扁額29枚とゆかりの所蔵品が展示されている。
北客間は佐藤栄作が使っていて、自分用と相手用のソファの座り心地違う。相手に早く帰ってほしいから相手用のが硬いと言われ、実際に座ってみると相手用のものはソファではなく椅子と感じるくらい硬かった。
山口市菜香亭 | 明治10年の創業から平成8年までの間、広く親しまれてきた料亭〈祇園菜香亭〉
豊栄神社は毛利元就を祀る神社で、野田神社は毛利家敬親とその子元徳を祭神とする神社。
今八幡宮
本殿・拝殿・楼門は、1503年(文亀3年)に大内義興が建立したもので、国の重要文化財。
楼門、拝殿、本殿が一直線に配置され、楼門を拝殿に兼ねた作り方は山口地方独特な形式で、その中でも当社のものが最古。
大内氏遺跡築山跡から、八坂神社
大内弘世が1369年(応安2年)に京都から勧請したもので、1519年(永正16年)に移転し、翌年に社殿を新築した。
毛利敬親が萩から山口に藩庁を移すにあたり、社殿を現在の地に移したが、本殿は1519年(永正16年)に建立されたままで、国の重要文化財に指定されている。
隣の築山神社は毛利隆元が大内義隆を祀るために1605年(慶長10年)に建立した宝現霊社がはじめと伝わる。
大内氏遺跡
館跡(大殿)、築山跡(大殿)、高嶺城跡(白石)、凌雲寺跡(吉敷)の4遺跡で構成される。
館跡は1360年(正平15年)頃に大内弘世が館を移した場所で、約200年間西日本の政治経済の中心地となった。現在は龍福寺がある。
池泉庭園、石組溝、西門、枯山水庭園を見る。
龍福寺
1206年(建永元年)に大内満盛が創建した臨済宗の寺で、宝珠山瑞雲寺と称していた。
1336年(延元元年)に大内弘直が再建し弘直の菩提寺となり、1454年(享徳3年)に大内教弘が曹洞宗、瑞雲山龍福寺と改めた。
1551年(天文20年)に兵火により焼失したが、1557年(弘治3年)に毛利隆元が大内氏の館跡である現在の地に龍福寺を再建し、大内義隆の菩提寺とした。
明治14年の焼失後の再建に際し、元大内氏の氏寺であった氷上山興隆寺の釈迦堂を移築したのが現在の本堂で、これも国の重要文化財。
資料館は行かず、その前に建つ大内義興馬上展望像を見る。
討つ人も 射たるゝ人も 諸ともに
如露亦如電応作如是観
山門を出ると、参道の新緑が綺麗。
十朋亭維新館
2018年9月に開館した博物館で、企画展示は「小郡庄屋同盟 市内南部の指導者(リーダー)たち」。
十朋亭は醤油製造を業とする萬代家の離れとして建てられたもので、山口へ藩庁を移した際、藩の役人たちの宿舎として利用された。当主の萬代利兵衛が志士達の活動を援護していたことから、木戸孝允、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、大村益次郎など、維新の志士たちが出入りした。
手鏡萬代帖という書が集められた冊子もあった。
くるくるしている装飾があったので何かと尋ねたら、ホタルかごというものだった。
近くの一の坂川ではゲンジボタル(国の天然記念物)を見ることができ、明日5月27日には「ほたる祭り~ほたるの夕べ~」が行われる。
大内政弘が別荘として建て、庭は雪舟に築庭させたもので、1455年(康正元年)に政弘の母の菩提を弔うために別邸を妙喜寺とした。
常栄寺は1563年(永禄6年)に毛利元就が毛利隆元の菩提を弔うために、安芸吉田の郡山城内に建てた。名前は隆元の法名である常栄寺殿花渓常栄大居士に由来する。
毛利敬親が萩から山口に移した時に、常栄寺は現在の地に移り、(妙喜寺と合寺した)妙寿寺と合寺した。
南冥庭は昭和43年の重森三玲作。「雪舟より良い庭を作られては困る。恥をかくような下手な庭を作ってもらいたい。」と依頼したが固辞され、「上手に下手な庭を作ってもらいたい」と再度依頼して作られた。
雪舟庭は一部工事中だった。奥には山口県指定天然記念物モリアオガエル繁殖地。
山口縣護國神社
洞春寺も瑠璃光寺も龍福寺も常栄寺も毛利氏の移封等により場所が移ったり合寺したりで難しい!
17時39分に宮野駅発のJR山口線で約5分、17時45分に山口駅に到着。
宮野駅の看板
「ここは宮野の表玄関です。利用する人、訪れる人に心ふれあう優しい町でありたいものです。」
山口駅には、大内人形のフシノの殿様とフシノのお姫様があった。
17時58分に山口駅発の中国JRバスで約50分、18時45分に防府駅に到着。
以下は、今朝の二度寝により行けかった津和野。
まぁ確かに津和野は島根県だし、また今度。
津和野は江戸初期に形成された城下町の町並みがほぼそのまま残り、「山陰の小京都」とも呼ばれる。
津和野の名は、「つわぶき」という花が群生する「つわぶきの野」に由来する。
約9,000年前の早期縄文時代から人々が住んでいたことが確認されていて、19ヶ所で遺跡が発掘されている。
1282年(弘安5年) 年に、元寇警備のため能登から石見に入部した地頭の吉見頼行が津和野城の築城にかかり、1324年(正中元年)に2代頼直の代に本格的な山城が完成した。
毛利家の武将となった吉見氏は関ケ原の戦い後に退き、次の坂崎直盛は千姫事件という切ない事件により約16年で失脚し、1617年(元和3年)に亀井政矩が藩主となった。
津和野町日本遺産センター
日本遺産「津和野今昔~百景図を歩く~」のストーリーを映像やパネル展示などで解説したガイダンスセンターで、「津和野百景図」(複製)をすべて見れる。
「津和野百景図」は栗本格齋が約160年前の幕末の頃の津和野藩の様子を描いたもの。
当時の景色や習俗を伝えるとともに、百枚の絵図に描かれた題材の半分以上は今日の津和野でも目にしたり体験したりできるもので、百景図の時代と今がつながっていることが分かる。
永明寺
1420年(応永27年)に津和野城主の吉見頼弘が創建し、吉見、坂崎、亀井の歴代の城主の菩提寺として栄えた。
津和野藩主亀井家墓所、坂崎直盛の墓、「森林太郎墓」と刻まれた森鴎外の墓がある。
津和野町本町通り
殿町掘通りには、津和野カトリック教会、藩校養老館跡、郡役所跡がある。
津和野カトリック教会は、1931年(昭和6年)に建てられたゴシック風建築の教会で、殉教資料を集めた乙女峠展示室もある。
藩校養老館は、津和野藩8代藩主の亀井矩賢が、1786年(天明6年)に創設した津和野藩の藩校で、西周、森鴎外などが学んだ。武術教場(槍術・剣術)と御書物蔵の建物を含む敷地が当時のまま残り、県史跡に指定されている。
平成27年から行われた保存修理工事及び復元工事が平成31年3月に竣工し、武術教場内部には養老館の沿革や養老館に関わる偉人を紹介するパネルが展示されている。
毎年7月20日、27日に開催される鷺舞は、国の重要無形民俗文化財に指定されている。
京都の祇園会で演じられていたものを、室町時代に大内氏が山口の祇園会に移し、さらに津和野の弥栄神社の祭礼に伝えられた。
津和野城跡
標高362mの霊亀山上に築かれた中世の山城で三本松城とも呼ばれ、吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間、亀井氏11代225年と明治維新まで続いた。
吉見頼行・頼直が1295年(永仁3年)から1324年(正中元年)にかけて築城し、関ヶ原の戦い後の1601年(慶長6年)に入城した坂崎直盛によって高石垣を有する近世城郭へと大改修された。
1617年(元和3年)に亀井政矩が入城した後は、亀井氏11代の居城として明治まで続いたが、1874年(明治7年)に石垣を残して解体された。
太皷谷稲成神社
1773年(安永2年)に津和野藩7代藩主の亀井矩貞が津和野城の鬼門にあたる東北端の太皷谷に、京都伏見稲荷から祀ったのが始まり。
ホームページによると日本五大稲荷の一社に数えられる。(五大稲荷は様々な数え方がある)
森鴎外記念館
幼少期を津和野で過ごした森鴎外の生家に隣接し、遺品や直筆原稿などを見ることができる。
今日のホテルは、防府グランドホテル。
シングルルーム15㎡、朝食付き。
防府グランドホテル 宿泊予約公式サイト|人気のホテルウエディング
山口県山口市観光情報サイト「西の京 やまぐち」 旅行・観光情報がいっぱい!
2023年05月25日~05月29日 四国旅行